【新元号『令和』発表】
新しい元号『令和』が平成31年(2019)4月1日に決まりました。
午前11時30分の発表予定でしたが、10分遅れで菅義偉官房長官が会見場に現れ、「先ほど、閣議で元号を改める政令、および元号の呼び方について閣議決定をされました。」と、多少緊張感と高揚感を感じる様子で話し始め、11時41分「新しい元号は令和であります」と告げ、『令和』と揮毫した額をかかげました。
『万葉集』を典拠とし、日本で記された国書に由来する元号は確認されている限り初めてとなります。
天皇陛下の退位に伴う改元は憲政史上初、退位に伴う改元は、光格天皇の退位で『文化』から『文政』に改元された1818年以来、約200年ぶりで、元号を改める政令は即日公布され、皇太子殿下が新天皇に即位する5月1日に施行されます。
今回は天皇陛下の生前退位による新元号となるため、ある種お祭りムードのような中での発表となりました。
「れいわ」は美しい響きを持つ言葉で、その言霊のように良い時代になるといいですね。
【『令和』の典拠・意味】
典拠は奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集『万葉集』の梅の花の歌、32首の序文にある、
「于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す(しょしゅんのれいげつにしてきよくかぜやわらぎ うめはきょうぜんのこをひらき らんははいごのこうをかおらす)」
から引用したものです。
この序文は、天平2年(730年)正月13日(今の2月8日頃)に福岡県太宰府市にあった『大宰府』の長官(=大宰帥(だざいのそち))だった大伴旅人(おおとものたびと)がその邸宅で催した『梅花の宴』の様子を描いたものです。
県知事にあたる国司ら32人が参加、この集まりは後に『万葉筑紫歌壇』と呼ばれるようになりますが、この宴から歌を詠むことが目的で人が集まるようになり、和歌の歴史上の転換点になりました。
安倍晋三総理大臣は1日正午過ぎの談話と記者会見で『令和』が新元号に決まった理由を語っています。
「この『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められています。」
「万葉集は、1200年前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで幅広い階層の人が詠んだ歌がおさめられ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいきます。」
「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望と共に、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定いたしました。」
「平成の時代のヒット曲に、『世界に一つだけの花』がありましたが、次の時代を担う若者たちが、あすへの希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そのような若者たちにとって、希望に満ちあふれた日本を国民の皆さんとともに作り上げていきたいと思っています。」
また3日の報道では、外務省は新元号『令和』について外国政府に英語で説明する際、「Beautiful Harmony=美しい調和」という趣旨だと伝えるよう在外公館に指示しました。
「令」の意味を命令と報道した外国メディアもあったことから異なる解釈をされるのを避けるため、趣旨を伝えることにしたとのことです。
『令和』は国民の間にも概ね好評ですが、「令」の字は元号で使われるのは初めてで、あまり使用頻度がないため、命令をイメージし冷たい感じがすると言う人や、ご令嬢などから気品があると言う人等いろいろ意見があるようです。
引用した『令月』は「万事をなすのによい月。めでたい月」との良い意味を持ち、今回元号に使われたことで、「令」の字のイメージも多くの人にとって良いものとなっていくことでしょう。
【新元号『令和』の聖地】
宴の開かれた大伴旅人の邸宅がどこにあったかは諸説あり正確にはわかりませんが、有力なのは大宰府跡地のすぐ近くにある『坂本八幡宮』付近(福岡県太宰府市坂本3丁目14)とされています。
境内には大伴旅人が詠んだ「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに来鳴くさ男鹿」の碑があります。
政庁跡東側の『大宰府展示館』には『梅花の宴』を人形で再現したジオラマがあり、新元号発表後、多くの人が訪れています。
また約6千本の梅の木がある太宰府天満宮には、新元号の発表直後から報道関係者らの問い合わせが殺到し、こちらも『令和』の聖地としてさらに賑わいそうですね。
【新元号発表までのプロセス】
本来は元号を改める政令への署名は新しい天皇の最初の国事行為となるものですが、今回は即位1ヶ月前の決定で、平成の時代に天皇陛下の署名で公布されました。
改元当日の発表でないことには、保守派を中心に複数のメディアでの批判もありました。
公式な元号の選定手続きは4月1日午前9時ごろから始まり、菅官房長官は横畠内閣法制局長官の意見を聴いた上で元号の原案として数案を選定、午前9時半すぎから、ノーベル賞受賞者の山中伸弥京大教授ら各界の有識者9人による「元号に関する懇談会」で元号候補とその典拠、意味などについて説明し、メンバーそれぞれから意見を聴きました。
メンバー9人(50音順、敬称略)
上田良一(NHK会長)、大久保好男(民放連会長)、鎌田薫(日本私立大学団体連合会会長)、榊原定征(前経団連会長)、白石興二郎(日本新聞協会会長)、寺田逸郎(前最高裁長官)、林真理子(作家)、宮崎緑(千葉商科大教授)、山中伸弥(京都大教授)
新元号の候補案や考案者は公にしないとのことでしたが、報道によると、新元号に決定した『令和(れいわ)』のほか、『英弘(えいこう)』『久化(きゅうか)』『広至(こうし)』『万和(ばんな)』『万保(ばんぽう)』が候補だったとのことです。
安倍首相によるとすべてのメンバーが国書を典拠とすることに賛成し、多くが『令和』を支持したとのことです。
午前10時20分ごろから衆院議長公邸で、大島理森衆院議長ら衆参両院の正副議長の意見を聴取、その後、全閣僚会議を開き、新元号を記した元号を改める政令を臨時閣議で決定しました。
閣議決定後、新元号の公表に先立ち、首相官邸は宮内庁を通じて天皇陛下と皇太子殿下に新元号を報告しました。
実際の新たな元号に向けた準備は、平成への改元直後から秘密裏に複数の専門家に依頼していて、政府関係者によると、この間に受け取った候補名は、100近くに上ったとのことです。
水面下で動いたのは、内政担当の内閣官房副長官補(旧内閣内政審議室長)で、国文学、漢文学、日本史、東洋史の碩学(せきがく)の学者に考案を依頼し、考案者が亡くなると新たに追加し、常に3~5人に頼んでおくという作業を続けてきました。
首相官邸に近い庁舎ビルにある内閣官房副長官補室の一見して分からない場所にある元号専用の金庫で保管され、扉をあける暗証番号は改元実務を担う内政担当の副長官補が交代する際に紙に書いて引き継がれてきたそうです。
天皇陛下が2016年8月に退位の意向をにじませるビデオメッセージを公表後、現在の古谷副長官補は考案者たちと都内で極秘に面会を重ね、「お考えに変わりありませんか」「追加はありませんか」と最終的な意向を確認し、下準備を整えました。
『令和』は直近になり追加されたものと政府関係者が明かし、考案者は文化勲章受章者で『万葉集』研究の第一人者の国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏(89)ではないかと推測されています。
【元号の条件】
政府が新元号の選定にあたって踏襲する1979年閣議報告の要領には、官房長官が候補名を検討する際に留意すべき条件が6つあります。
(1)国民の理想としてふさわしいような良い意味をもつ(2)漢字2字(3)書きやすい(4)読みやすい(5)これまでに元号またはおくり名(追号)として用いられたものではない(6)俗用されていない
これらに加え、明治、大正、昭和、平成の「M、T、S、H」が頭文字の案や事前にマスコミで話題になった上位の案は避けるなど、いくつかの条件を考慮したことが伝えられています。
【元号・年号とは】
そもそも元号・年号とはどのようなもので元号・年号の違いはあるのでしょうか。
元号・年号はほぼ同意語として使われていますが、庶民に知られるようになったのは江戸時代で、江戸時代までは年号が使われることが多く、現在は元号法という法律が根拠になっているので公的には元号が使われています。
その歴史は古く、大化の改新で有名な645年の『大化』がその始まりで、『令和』で248番目になります。
『大化』から『平成』まで1300年余りの間に使われてきた247の元号は、確認されている限り中国の儒教の経典『四書五経』など漢籍(漢文で書かれた中国古典)を典拠としているため、国書を典拠としたのは『令和』が初となります。
明治以降、一人の天皇にひとつの元号となりましたが、以前は同じ天皇の御代の中で改元し複数の元号が使われたこともありました。
明治天皇は『宮中賢所』(天照大神の御霊代(みたましろ)として神鏡八咫鏡(やたのかがみ)を祀ってある所)において、いくつかの元号候補の中から、御自らくじを引いて御選出されました。
昭和までは天皇自身に最終決定の権限があり、平成以降、内閣が決め天皇が承認する形になっています。
元号の起源は古代中国にあり、「皇帝が時を支配する」という思想のもとで使われましたが、元号の使用は宮中などに限られ、庶民に広く伝わるようになったのは江戸幕府がお触れを出すようになってからです。
日本は今も『元号』を使う世界で唯一の国ですが、一般庶民が元号を優先的に使った時代はほとんどなく、戦前・戦中は『皇紀』がよく使われ、戦後は『西暦』との併記で、今はどちらかというと西暦を使うことも多くなりました。
しかし「『昭和』は遠くなった」など懐かしさを含め語ったり、『明治維新』『大正デモクラシー』『平成の歌姫』などひとつの時代や出来事を表す言葉として元号は広く親しまれています。
【元号の雑学】
菅官房長官が掲げた額の『令和』の文字を書いたのは、内閣府の辞令専門職の茂住修身(もずみ・おさみ)さんで、吉田沙保里さんらの国民栄誉賞の表彰状も手がけてきました。
前回、小渕恵三官房長官が掲げた『平成』の元号を揮毫した書は、2010年3月に寄贈され国立公文書館に保管されていますが、それまでは改元時の総理大臣だった竹下家の私物で、孫のDAIGOさんがTV番組で、実家に「自然に絵のように飾られていた」と明かしました。
今回は会見で掲げた『令和』の書は、公文書とすることが決まっています。
SNSでは「れいわ(018)を足すと西暦に変換できるの便利」という投稿が話題になりました。
令和元(1)年を西暦で表すと、(2)018+1で2019年ということですね。
実際に使う場面では西暦はすぐわかりますが、役所の書類記入などで元号で何年だったかと考えることが多いと思いますので、この18の差を引けばいいということになります。
西暦2020年なら20から18を引いて、令和2年とすぐわかります。
覚えやすいですね。